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対馬と宗家

 宗家は鎌倉時代から明治時代まで約600年にわたって対馬の領主をつとめ、日本と朝鮮との外交・貿易に重要な役割を果たした一族です。その出自は大宰府の役人であった惟宗(これむね)氏で、対馬守護の少弐氏(武藤氏)の代官として対馬に渡り、武士化して「宗」の姓を名乗ったと考えられます。その活動は、文永11年(1274)のモンゴル襲来で戦死した対馬地頭代の宗資国(すけくに)のころから明らかになりはじめ、やがて対馬の実質的な統治者となって朝鮮との貿易にも深く携わり、室町時代には朝鮮貿易を独占する地位を築き上げました。

 天正15年(1587)、宗義調(よししげ)・義智(よしとし)は豊臣秀吉に服属します。義智は、秀吉が強行する朝鮮出兵の回避に努力しますが、開戦となって朝鮮貿易は中断しました。秀吉の死後はただちに国交回復に努め、慶長12年(1607)には朝鮮使節の来日、同14年には貿易の再開に成功します。寛永12年(1635)のお家騒動「柳川一件」に勝訴した宗義成(よしなり)は、藩政改革を実施して近世大名としての基盤を整えます。宗家と対馬藩は江戸時代を通じて日朝外交の実務と貿易を独占的に担い、明治維新を迎えるまで15代続きました。

 対馬藩の城下町は対馬府中、現在の長崎県対馬市厳原(いづはら)で、居城として金石屋形(かねいしやかた)と桟原屋形(さじきばらやかた)がありました。領地は対馬一国と肥前国基肄・養父郡に1万石(佐賀県基山町と鳥栖市の一部)。文化14年(1817)年に肥前国松浦郡・筑前国怡土郡(佐賀県唐津市・福岡県糸島市の一部)、下野国安蘇・都賀郡(栃木県栃木市・佐野市などの一部)に2万石を加増されました。対馬一国は「無高」とされ、江戸幕府から表向きは米がとれないという形で認められています。江戸時代の大名の格式をあらわす際に使われる石高で表すと、宗家は10万石以上格でした。

 また他の多くの藩と同様、江戸に上屋敷などの藩邸、京・大坂に藩邸、蔵屋敷をおきました。そのほか博多、壱岐勝本、長崎にも蔵屋敷がありました。対馬藩独自の施設として、日朝外交、貿易の拠点として釜山の倭館がありました。

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